穏やかに降り注ぐ柔らかな日差しとは裏腹に、春先は風の強い日も多く。
ふと書き込んでいた書類から顔を上げた瞬間。
「あ」
仕事に差し支えのない程度に、薄く開けた窓からひらりと舞い込む薄紅を見つけ、無意識に出たのは間抜けな声で。
「どうしました?」
こちらを見ることも仕事の手を休めることもなく、先生が口を開く。
「桜の花びらが……」
言葉を紡ぐ間にも、部屋を彩る薄紅。決して数は多くないものの、それは目を惹き付けた。
「ああ」
そこで漸く万年筆を置いた先生は、季節と同じ笑みを浮かべた。
「すぐ近くに桜並木があるでしょう。風の強い日は、入り込んでくるのですよ」
この時期は恒例ですねと付け加えて、先生は花びらを見据えた。
「そうなんですか?」
「おや。知らなかったのかい?」
薄紅の侵入を防ぐためか、先生はゆっくりと椅子から立ち上がり、窓際へと寄る。
「はい」
「そういえば……」
先生は窓を閉めると、床に落ちている薄紅を拾い始めた。
「キミは初めてでしたね。この事務所で迎える春が」
だからなのだろうか。オレは今の今まで、この近くに桜があるということなど全く以て知らなかった。
「事務所の西。少し進んだ先に、あるのですよ」
「そうなんですか……」
すっかり止まった仕事の手。同じように拾い集めると、意外と多いことに気が付いた。
「昼の桜も綺麗ですが、夜もまた見事なものですよ」
訊けばこの時期だけライトアップがされるらしい。
「時間に余裕があるのなら、帰りに寄るといい。桜は短命ですからね。この風では、明日には散っているかもしれない」
その場所は帰宅路とは逆だが、一度知ってしまったら“見ない”という選択肢はなかった。
「はい。ありがとうございます」
オレが笑うと、先生もにこりと微笑む。
集めた花びらは少し寂しい気もしたが、ゴミ箱へと落とした。
「あ」
「うん?」
今度はなんだという顔で、先生がこちらを見る。
「一緒に見に行きませんか?先生、そっちの方向でしたよね?」
「私と?」
「はい」
「……そうですねえ……」
突然の提案に先生は暫く考え込んだあと、今度は含みのある笑みを浮かべた。
「私の舌を満足させられたら、良しとしましょうか」
それはつまり、美味しい紅茶を用意しろ、という意味で。
「すぐにご用意しますっ!」 
綻ぶ顔を隠すことが出来ずに、急いで給湯室へと向かう。
オレはもう、先生を満足させられるだけの腕を持っている。つまり、答えはもう見えていた。
それに給湯室には、つい最近揃えたばかりの紅茶がある。

それはこの日にこそ相応しい名の――




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