伍番街スラムの外れにある教会。その扉を前にツォンは立ち尽くしていた。
この古びた扉を開ければ、いつものように花の手入れに励むエアリスがいる。いつもならツォンも気に留める事なく足を踏み入れていた。
けれども今日は、中に踏み入る事を戸惑ってしまった。
顰めっ面をされる事には慣れている。
だが目の前にあるこの扉が音を発すれば、彼女の頬はきっと、赤く染まるのだろう。
(その上で顰めっ面、だな)
これが部下ならば、躊躇いもなく彼女の元へと足を進めるのかもしれない。
ツォンは息を吐くと胸のポケットに手をやった。しかし目当てのものがない事に気付く。
社に置いてきたのだろうか。否、違う。 昼前、手持ちが切れたと騒ぐ先の部下に、自身の煙草を箱ごと渡していたのだ。
(買いに行かせるのを、忘れていたな)
ツォンは音に出さずに悪態を付いた。

エアリスは煙草の匂いを嫌う。
彼女だけではない。女という生き物は、スーツに染みた煙の匂いを嫌がる。

『病気を買うなんて、馬鹿みたい』

以前彼女に言われた言葉を思い出し、ツォンは一人笑う。
そうして先の悪態も忘れ、エアリスの不機嫌が三つも重ならぬ事を良しと思う事にした。
手持無沙汰となったツォンは、土で汚れた教会の石段へと、服が汚れる事も気にせず腰を下ろした。

元々この教会は、廃墟と呼ぶに相応しい場所だった。
建てられてからどれ程の年月が経っているのかさえ分からなかったこの屋根の一部は崩落し、そこから吹き込む雨風の影響で所々床板も腐り落ちている。
その大きくあいた天井から入り込む風に乗って、彼女の唄が聴こえているのだ。
ツォンはエアリスの唄声を消したくはなかった。 しかし、いつまでもここでこうしているわけにもいかない。

(どうしたものか……)

エアリスが口ずさんでいる唄は、ある地方に古くから伝わる童謡だった。
ゆっくりと、単調なメロディ。それを繰り返し唄い続けるエアリス。
(意外と、上手いんだな)
今までエアリスが唄を唄う事などなかった。あったとしても、ツォンが耳にするのは
これが初めてだった。
だがツォンはこの唄声を初めて聴いた気がしなかった。
(ああ……そういえば、これは――)
頭の片隅に眠る、遠い記憶を呼び覚ます。
確か彼女の母親も、優しい唄声を響かせていた。
狭く白いあの空間で、今エアリスが唄うものと、同じ唄を。
(何故、彼女は……)
この日に限って、唄を唄うのだろう。
亡き母の夢を見たのか。それとも――

「唄が、止んだな――」
ツォンはゆっくりと立ち上がり、暫く待ってから、ようやく目の前の重い扉に手を掛けた。

144.La berceuse, desirez ardemment il y a longtemps ずっと昔の、子守歌

橙の庭さまよりお借り致しました。


 

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