屋敷で暮らしていた時のことは、あまりよく憶えていないんです。
何人もの使用人さんがいたのは憶えていますが、その人たちの顔はもう思い描くことは出来ません。
周りには僕以外の子供なんていなかったから、遊ぶのはいつも一人でした。
たまに絵本を読んで貰ったこともあるけれど、あとはほとんど勉学の時間だけでした。
父親は、何かあるとすぐに手を上げるような人で。
病弱で自室に籠りがちの母は、いつも寂しそうな顔をしていました。
体調の良い日は顔を出して、優しく僕の頭を撫でて抱きしめてくれたこともありました。
僕は、そんな母が大好きでした。
遊び相手がいなくたって、父にどんなに殴られたって。 母さえいれば、それだけで十分でした。
だからあの日。父が持ち込んだ病で、母が倒れた時。 僕は悲しみのどん底に叩き落とされました。
後を追うように死んでいった父には、涙の一つも出ませんでした。
父さえいなければ、流行病に母が倒れることはなかったし、屋敷だって奪われずに済んだんだと恨みました。
仕えていた使用人さんのほとんども、同じ流行病で亡くなりました。 どうして僕が無事だったのかは分かりません。きっと、あれは大人にしか罹らないのかな。そんなことを考えました。
父が抱えた借金のせいで、屋敷を追い出された僕に遺されたものは、ほんのわずかな荷物だけでした。
大好きだった母を亡くし、居場所も無くした僕には、父のせいで頼れる親戚もいないし、何処にも行くあてがなくて。ただただ草原を歩きました。
時折現れる魔物が怖くて、必死で逃げました。
服は汚れて破れるし、体力はどんどん減っていくし。なけなしの食料が底を尽くのも、時間の問題でした。
近くの木に凭れ掛かって、僕は悟ったんです。 このまま朽ち果てて逝くんだと。この広い草原の中で、たった、独りで。
その時、何処からか鐘の音が聴こえて。閉じかけた瞳を開いて、僕は耳を澄ましました。
そういえば、この近くには修道院があって、そこは僕みたいな孤児を引き取っているんだっけ――
屋敷にいた頃、そう教わったのを思い出した僕は、重い身体を起こして、必死でその修道院まで歩きました。
微かな希望と、大きな不安。僕の胸はその二つで一杯でした。 もし受け入れてもらえなかったら、その時はどうすればいいのだろうと。
初めて聴く讃美歌の中、修道院の扉はとても重くて、中に入っても誰も居なくて。
置かれていた女神の像が怖くて、逃げ出すように次の扉を開けました。
明るい光に一瞬目が眩んで、ゆっくり歩いて行きました。 向こうから一人、大人の人が来たけれど、その人は僕なんかには目もくれず、堪えていた涙が零れそうになりました。
また違う人の足音が聞えてきても、僕の身体は石のように硬直して、顔も上げる事が出来ませんでした
。 きっとこの人も、僕を見てはくれないんだ。そのまま何処かに行っちゃうんだ。そう、思いました。
でもその人は、声を掛けてくれたんです。下を向いて、立ち尽くす僕に。
初めて声を掛けて貰えたのもあったけど、なにより久しぶりに聞く人の声が、嬉しかったな。
『ここではみんなが家族になってくれる。大丈夫だよ』
その人はとても優しい声で、笑って、僕と同じ目線でそう、言ってくれたんです。
僕は堪えていた涙が溢れました。だけど、一度芽生えた不安は拭えなくて。
“でも”しか言えない僕に、その人は『泣かないで』って言ってくれて。そして、僕の名前を訊いたんです。
僕は涙を拭って、元気に名乗りました。
大好きだった母が、
『名前を訊かれた時は、ちゃんと相手の瞳を見て、元気に挨拶するのよ』
そう教えてくれたからです。
なのに、どうしてかな。 その瞬間、その人の顔は凍りついたように冷たくなって。 『出ていけ』って言ったんです。『僕の居場所を、お前はまた奪うのか』って。
僕は何が起きたのか分かりませんでした。その言葉の意味も。
あの人は、どうして怒ってしまったんだろう。それは今でも分かりません。
あの時僕は、気が付かないうちに、何か失礼なことをしてしまったのかもしれません。
でも僕は、何も言うことが出来ませんでした。 ただ、去ってゆくその人の背中を、じっと見ていることしか、出来ませんでした。


「それからのことは、ご存じの通りです」
蝋燭の明かりが煌めく部屋の中では、二人の男がチェスを嗜んでいた。
一人は美しい絹糸のような銀髪を持つ少年。もう一人は、長く伸びた白髪を低い位置で二つに括り、これまた立派な髭を生やした老人。
穏やかな橙の灯りに、二人の髪は輝きを放っていた。
「そうじゃったか」
少年の話を聞き終えた老人が小さく呟く。
部屋には沈黙が流れ、老人は傍らにあるティーカップを手に取った。
あたたかいはずだったそれはもうすっかりと冷めきっていたが、気にすることなく満たされた琥珀を一口含んだ。
盤の上は少年の駒が有利に踊っていた。
このまま打ち続けても、老人の勝機は難しいだろう。 それでも投げ出すわけにはいかない。老人は静かにカップを置くと、止まっていた駒を動かす。
駒の置かれるその音だけが響く中、暫くして部屋の沈黙を破ったのは少年だった。
「チェックメイト」
勝利を収めた少年に老人は軽やかに笑う。
「お主は強いのう。儂なんかではもう、相手にならんじゃろうて」
「そんなことはありません。オディロ院長だって、十分お強いじゃないですか」
少年の蒼い瞳が緩やかなカーブを描く。先の老人と同じように、己の傍らにある紅茶に口を付け、「今日もまた冷めちゃいましたね」と笑う。
オディロとのチェスはいつも長丁場だった。見抜いた癖は対決を重ねるごとに変化し、その度少年ははらはらしながら駒を打ち続けていた。
勝敗はいつも五分五分だ。他愛もない話を交え、時に集中するあまり、紅茶が冷めてしまうのは毎度のことだった。
少年がチェスの駒を片づけようと立ち上がると、オディロはそれを手で制した。
「よいよい。片付けは儂がやろう」
「でも……」
「その代わり、ククールよ。美味しい紅茶を淹れてくれんかの」
オディロの言葉に、ククールと呼ばれた少年は「はい」と返事をした。


ククールがこの修道院に来てから、もう二年の月日が流れた。
幼い面影は消え、立派な少年へと成長を遂げたククールは、もともと勉学に勤しむ子供であったからか、規律を守り仕事も真面目にこなす優秀な修道士の一人だった。
だがこの修道院には、そのような者は他にもいる。
ククールは何故自分だけが頻繁に、この修道院の長であるオディロに呼ばれ、彼の話し相手となり、時にこうしてチェスの相手を任されるのかが分からなかった。
けれどもオディロは、母と同じように、頭を撫でてくれる。
優しい温もりと共に、自分の知らない世界の話を聞かせてくれる。 チェスだって、他の人間とするよりもずっと楽しいしと、あまり深く考えはしなかった。

「でも、どうして今日は、僕の昔話なんか訊いてきたんだろう……」
 オディロがククールに訊くのは決まって
「修道院での暮らしはどうか」という事だった。
つまり、近況しか訊かれなかったのだ。それが今日は違った。
 ククールが何故この修道院に来たのか。その経緯を訊かせてはくれないだろうかと告げたのだ。
「あ、いけない」
あ、いけない」
ぼこぼこと音を立て始めた湯にククールは意識を戻す。
洗っておいたティーポットを沸騰する直前の湯で温め、その間に茶葉と角砂糖を用意し十分に温まった所で湯を捨てる。
空いたそこに茶葉を入れ、火に戻し沸騰した湯を高めの位置から勢いよく注ぐと、茶葉は美しい舞を見せた。蒸らす間に残った湯でカップを温めるのも忘れない。
茶葉の浮遊が納まったのを確認し、湯を捨てたティーカップに注ぎ淹れれば、芳醇な香りが部屋に満ちた。
角砂糖はオディロのカップに一つ。自分の分には二つ入れた。
―――ククールにとって紅茶は、甘い香りはしても、砂糖で誤魔化さなければただ渋いだけの飲み物でしかなかった―――
用意の出来たそれを盆の上に載せ、零さないようにゆっくりとオディロの待つ二階へと向かう。
先程までチェスをしていたテーブルの上は綺麗に片付けられ、オディロは備え付けの椅子に深く腰掛けていた。
「すまんの。ククール」
「いいえ。お待たせしました」
静かに置かれた白いティーカップの中は、再び見事な琥珀色で満たされていた。
「熱いですから、お気を付けて」
紅茶の香りを嗜んだ後、口を付けたオディロの顔が綻んだ。
「うむ。良い味じゃ」
「ありがとうございます」
微笑みを浮かべ、同じように紅茶を口にする。甘さは香りだけでなくしっかりと感じられ、ククールの乾いた喉を潤した。
「さて、儂はちと腰が痛くなってきた。ベッドに腰掛けてもよいかの」
紅茶を飲み終えたオディロが、ゆっくりとした動作で椅子から立ち上がる。ククールは飲みかけのカップを置いてオディロを手伝った。
ふう、と息をついて腰を下ろしたオディロは、ククールにも腰掛けるようにと手で示した。
神聖なオディロのベッドに腰掛けるなどと躊躇ったが、それを察したオディロが「気にせんで良い」と告げたので、ククールは素直に従うことにした。
そのベッドはククールがいつも使っているものよりも柔らかく、とても心地が良かった。
「さっきのお主の話じゃが……」
髭を擦りながら、オディロが静かに口を開く。
「ちと、つらい思い出を話させてしまったようじゃの……」
「いえ……」
「……ククールよ」
名前を呼ばれたククールは、隣のオディロに目を合わせ、「はい」と答えた。
呼ばれた時も、必ず瞳を見て返事をなさい。それも母の教えだった。
「じゃが、お主も立派に成長した。もう、良い頃合いじゃろう。これから儂が語ることは、お主にとってまたつらい事かも知れぬ。それでも、聞いておくれ」
静かに、ゆっくりと語られるオディロの調べを、ククールは黙って聞いていた。


「嘘だ……」
薄く開けた窓から流れる風に、蝋燭の灯が揺らめく。
話を聞くうちにいつの間にか強く握りしめていたククールの拳に、 オディロの手が重なる。
「嘘だ……。まさかそんな、あの人が……」
オディロから語られた話はとても信じがたいものだった。
自分には腹違いの兄がいて、今この修道院にいること。
兄は何故ここにやって来たのか。
その兄とは一体、誰なのか。
「父も母も、誰も教えてくれなかった……。そんな話、一度だって……」
呟くと同時に、脳裏に兄と知ったあの青年の冷たい眼差しが蘇る。
「そうか……。だから……」
ククールはそっと息を吐く。
「僕のこと、あの人は知っていたんですね……。僕が、生まれた……時、から……」
ずっと気になっていた。ずっと気に掛けていた。
あの人は何故、急に怒ってしまったのだろうかと。
先程オディロには失礼を働いてしまったのかもしれないと告げたが、自分はただ名乗っただけなのだ。
それがどうして怒りの原因となったのか。尋ねようにも、彼は自分に気付くとすぐに踵を返してしまう。
知る術など、一度もなかった。
「ずっと、憎んで、いたんだ……」
迫り上がる嗚咽に息を切らしながら、ククールは震える声で呟く。
「あの人は、最初から……僕を……。僕が、生まれた日から……。あの人は、ずっと……だから、だから……」
出ていけ、って言ったんだ――
目尻に浮かんだ涙は静かに頬を伝い、二人の拳に小さな水溜りを作る。
オディロは止まることのないククールの涙を受け止めながら、悲痛な面持ちを浮かべ口を開いた。
「泣くなと言うのも、無理な話じゃ……。正直儂も、お主たちのことを知った時は驚いた」
「オディロ、院長……っ」
「……じゃがの、ククールよ。お主らの生い立ちや、巡り合わさったことが、どんなにつらく悲しいことじゃとしても、いつか必ず、必ず分かち合える日が来るじゃろうと、儂は願っておる」
しわがれたオディロの手が優しくククールの頭を撫で、泣きじゃくる彼を抱き締める。
「儂らには、神が定めし宿命というものがある。その名の通り、この世に生を受けた誰もに宿るものじゃ。
お主が男に生まれ、そして人間として生まれたこと。これは決して変えることの出来ぬ宿命じゃ。
一方で、運命というものがある。宿命と似てはおるが、この二つの言葉には大きな違いがある。
宿した命は変えられぬが、運ぶ命は、儂らの意思や行動によって変えることが出来るからじゃ」
「……変え、る……?」
あたたかい温もりに包まれたまま、ククールはオディロを見上げた。
オディロは小さく頷き、今度は涙が伝うククールの頬を、両の手で優しく包みこんだ。
「運命とは、謂わば幾重にも広がる道なのじゃ。しかし、その道を目にする事は決して出来ぬ。
道を知るには、進んでみなければ一切分からぬのじゃ。幾重にもある中から、どれを選ぶのか。それを決断するのはいつだって己自身じゃ。
お主がこの修道院の鐘を聴き、ここに足を運んだのも、己の意思で、“朽ち果てたくない”という道を選んだからじゃ。つらき道は変わったじゃろう。違うかの」
少し間を置いた後、今度はククールが頷く番だった。オディロの言葉は、正しかったからだ。
あの時自分は、死んで逝くことが怖かった。嫌だった。誰かに助けて欲しかった。縋りたかった。
だからあの時、あの鐘の音が聴こえた時。自分は修道院へと向かったのだ。それはオディロの言う“運命を変えて”いたことに違いはないのだ。
そうだとは気付きもせず、自分は“生きたい”という新しい道を選んだのだ。
そしてこの修道院で、初めて声を掛けて貰った瞬間。名を告げる前までは、確かに変わっていたのだ。
例えほんのわずかだとしても。自分はあの時、幸福を噛み締めたのだ。
「でも……僕が……僕がその道を選んだせいで……あの人は……」
兄は、変わってしまった。
忘れてはいなくとも、もしかしたら、自分と出逢う前までは小さかったかもしれない憎しみ。
その心を再び強く灯してしまったのは、自分だ。
知らなかったとは言え、自分がこの道を選んだから。この世に生まれてしまったから。
優しかったあの兄を、変えてしまったのだ。憎しみで渦巻く心を再び舞い戻らせてしまったのは、他の誰でもない、自分のせいなのだ。
頭の片隅で、母の姿が蘇る。
そうだ――母は、母はいつも悲しみに暮れていた。あれはきっと、兄と兄の母親を想っていたからだ。
自分を宿してしまったから。自分が生まれてしまったから。きっと、今の自分と同じような感情を抱いていたのだ。
私さえいなければ。そう思って、悲しみに暮れていたのだ。
それは確信に近かった。自分の知る母は、誰よりも、なによりも優しい人だったのだから。
「……僕なんか、生まれなきゃ、良かったんだ……。そうしたらきっと、誰も悲しまなかった。母だって、兄だって、みんな……。
僕のせいで、みんなを……みんなを変えてしまった……。せめてあの時、あの時僕が、生きたいなんて思わなければ……。兄は……兄は……っ!」
新しい家族に恵まれ、幸福な時を過ごせるはずだったのだ――
収まりかけた涙が、再びククールの目尻に浮かぶ。
「僕なんか、死ねばよかったんだっ……!」
ククールが叫ぶように言い放った瞬間、その頬に痛みが走る。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
「そんな言葉、口にしてはいかぬ」
打たれた頬が熱を持つ。久しく感じたその痛みに、ククールは父の姿を思い出す。
けれども、この痛みは、父が与えたものとは、違う。
「院長……」
オディロの顔は悲しみに満ちていた。打たれたことよりも、それが何故だか悲しかった。
「よいか、ククールよ。生まれてきてはいかぬ命などない。己を責めてはいかぬ。道には人との出逢いが必ずある。その出逢いがなければ、己の道も広がらぬ。
そしてその出逢いは、儂らに様々な感情を生み出す。ゆく道が幸か不幸か。それは出逢った者との関わり合いによっても大きく変わる。
……じゃがの、ククールよ。その関わりがどんなものであれ、それがなければ人は生きてはゆけぬ……。つらい悲しみから、目を背けてはいかぬ。
背け進むことを諦めれば、何かが変わるかの? いいや、何も変わりはせん。ただ終わってしまうだけじゃ……。
進んでしまった道は引き返せぬ。幾ら悔やんでも、戻れはせぬ。じゃが、進み続ければ必ず変わる。今がどんなにつらい道じゃろうとも、例え悲しみで満ち溢れていようとも。生きている限り、必ずそれは変わる。
あの時の道が変わったように。生きてさえいれば、いつか必ず、道も、人の心も変わるんじゃ」
オディロはもう一度ククールの頬に手をあて、叩いた頬を癒すかのように優しく撫でた。
「お主らの父親は、確かに道理を外れていたかもしれぬ。じゃがその父親がいなければ、お主らは生まれることもなかったじゃろう。どんなに憎くても、今ここにその命がある以上、それは感謝せねばならぬ」
ククールは何も言うことが出来なかった。涙を零し、ただじっとオディロの言葉を聞き続けることしか出来なかった。
「これはお主だけでなく、あやつにも何度か告げたことがあるのじゃが……。なかなかそう簡単に聞きいれて貰えんでの……。
あやつはお主よりもちと気難しい年頃じゃから、仕方のないことやもしれぬが……。それでも儂は、諦めぬよ」
しわがれたオディロの指が、そっとククールの涙を拭う。けれども涙はいつになっても止まることはなかった。
「諦めることも、道を進むのを止めることと同じじゃ。
じゃから儂は前に進む。凍てついたあやつの心が溶けるその時を。お主らが、いつか分かち合える時を願い、進み続けておる。……それにのう、ククールよ」
嗚咽に返事をすることの出来ないククールは、瞳だけで返事をする。幾つもの皺に刻まれたオディロの顔が、ふと綻んだ。
「年寄りはのう、しつこいんじゃ。しつこさだけが、取り柄なんじゃよ」
先程までの張り詰めた表情は一変し、まるで悪戯が成功した子供のような顔を浮かべるオディロに、ククールの嗚咽がほんの少し和らいだのを、オディロは見逃がさなかった。
指を下に滑らせ、ククールの口元をくいと上げる。
「儂の子供となったからには、皆笑顔でいてほしいんじゃ。そして幸せでいてほしいんじゃよ、ククール」
オディロの指が離れ、その手は再びククールを抱き締めた。
「心優しき、儂の愛しい子よ。共に願い、信じ進もうではないか……」
「……オディロ、院長……」
屋敷にいた頃。自分を優しく抱き締めてくれるのは、母だけだった。
自分はそんな母が好きだった。心から、愛していた。
その母は病に倒れ、もうこの世には、いない。<
優しい母の、あのあたたかい温もりにはもう、二度と触れられない。
けれども、その温もりを与えてくれる人は、母だけではないと知った。
それを教えてくれたのは――

「オディロ、院長っ……!」
オディロはいつだってククールを抱き締めた。オディロから与えられるその優しさが、嬉しかった。
オディロの言葉は、決して一時の慰めなどではないことも理解している。
自分は、その優しさを。このあたたかい温もりを。もう二度と、失いたくなかった。
「院、長……! 僕は……僕はっ……!!」
ククールはその続きを言葉にすることは出来なかった。ただオディロの胸にしがみ付き、再び迫り上がる嗚咽に泣き続けることしか出来なかった
オディロは泣きじゃくるククールを、いつまでも優しく抱き締め続けた。<br。

不安はまだ、拭えない。
けれども、これから選ぶ道が、例えどんなにつらくても。
それでもいつか、いつか。このまま進み続ければ、きっと。
たった一人の兄と。生涯ただ一人の兄と、分かち合えるその時がきっと、来る。

その時を願い、信じて。 僕は前に、進もう――


111.Qu'est-ce que vous faites dans l'illusion tremblante?
たゆとう迷いの中で、きみは、そこで
橙の庭様よりお借り致しました。

inserted by FC2 system