窓から差し込む光の眩しさに、エイトは目を覚ました。
体を起こせば、割れんばかりの酷い頭痛が彼を襲う。
抱えるように暫くじっとしていると、幾らか和らいだ気がした。
どうしてこんなに痛いんだろう。まだ覚醒しきっていない頭で、エイトは考える。
「そうだ…。お酒、飲んだんだっけ…」
久しぶりに暖かい部屋でゆっくりと出来る事。野宿で味わうよりも、素晴らしく美味な料理。
魔物の心配をする必要もないという、その三つの幸福に、仲間と穏やかに談笑できる貴重な一時が嬉しくて。
食事が終わった後、いつものように酒を嗜むヤンガスとククールについ遅くまで付き合ってしまったのだ。
そして自分も、普段は飲まない酒を嗜んだ。自分から進んでというわけではない。
お前も飲んでみればと勧めるククールにヤンガスも同調し、少しだけならと口にしたのだ。
そんな自分たちに、ゼシカは呆れてさっさと与えられた彼女の部屋へと戻って行った。
そこまで思い出すと、横のベッドですやすやと眠る二人を見る。
仰向けに行儀よく眠るククール。その隣のベッドで眠るヤンガスの姿は、見えなかった。
けれども聞えてくる豪快な鼾に、きっとまた床に落ちてそのまま寝てしまっているんだろうとエイトは思う。
くすりと笑みを零すと、まだ夢の中にいるククールが身動ぎをした。
上を向いていた顔が、エイトの方を向く。下ろした絹糸のような銀髪が、さらりとベッドの上で踊る。
穏やかな陽の光に照らされた彼の目元が、きらりと光って見えた。
エイトは静かにククールの方へと体を向け、その横顔を見つめ、驚いた。
彼の目尻には、涙が浮かんでいた。
(どうして……?)
どうして彼は、泣いているのだろう。何か不吉な夢でも、見ているのだろうか。
だがその表情は、夢に苦しんでいるような様子はない。寧ろいつも通りの寝顔なのに、ただ幾つもの涙の跡がある。
それが酷く違和感を感じさせた。
酒を嗜まないエイトは、一番に目が覚める。だから今日だけでなく、今まで何度も仲間の寝顔を見てきた。
だが、こんな事は、今までにあっただろうか。
否、ない。静かに眠るククールが、涙を浮かべていた事など、自分は一度も見た事はない。
エイトは、その涙を拭おうかと迷っていた指を、触れる直前で戻す。
触れてしまったら、きっとククールは、目を覚ますだろう。
そして彼がその涙に気付いた時、自分はなんて声を掛ければいいのだろう。
悪い夢でも見たの。そう訊けば良いのかもしれない。
けれどもエイトはそれを躊躇った。
何も見ていないし、何も訊かない。そうする事が良いと何故かそう思ったからだ。
ヤンガスの目覚めの悪さは知っている。
暫くもすれば、きっとククールは目を覚まし、横たわる自分に声を掛けるだろう。
珍しいな、お前がまだ寝てるなんてと。何もなかった顔で。いつもの声で。
エイトはもう一度ベッドの中へと体を沈め、彼の見る夢が、どうか幸福な夢でありますようにと強く願った。

 

 

気が付くと、真っ暗な闇の中に居た。辺りを見渡しても、何処までも広がる一面の闇。
誰か居ないのかと声を掛けても、何の返事もしない。
ここは何処だ。何故自分一人だけが、こんな処に居るんだ。
冷や汗が流れる。とにかく、出口を探さなければ。何も見えない闇の中を走る。しかし幾ら走っても、出口は見当たらない。
もしかして、こっちじゃないのか。引き返そうにも、何処から来たのか分からなかった。
そもそも、出口なんてものはないのかも知れない。
そう思った時、遠くで小さな音がした。聴き憶えのあるその音は、もう暫く耳にしていなかった、修道院のあの鐘だ。
鮮明に聴こえ出したその音の方向に、足を進める。
暫く走り続け、近くで聴こえるようになったその時。世界は、鮮やかな空の青に変わった。
ふと感じる、誰かの気配。振り返れば、そこには一人の男が立っていた。
見慣れた蒼い修道服。きっちりと整えられた黒髪に、翠玉のような瞳。自分はこの男が誰なのかを、知っている。知らない筈がなかった。
どうしてあんたが居るんだ。ここは一体何処なんだ。そう言おうとした声は、近付く蒼の温もりに音にする事が出来なかった。
この男が自分に触れる事など一切なかった筈だ。なのに、これはなんだ。一体、どうしたと言うんだ。
男がオレの名前を呼ぶ。それは酷く優しい声だった。
不可解な男の行動に戸惑いながらも、抱き締められたあたたかい温もりを振り払う事は、出来なかった。
先程まで、深い闇の中に居たからかも知れない。否、そうじゃない。
ずっと昔から求めていたのだ。自分は、この温もりを。今目の前に居る、この兄の腕を。
何故泣くのだ。兄の言葉に、頬に伝わる涙に気が付く。兄は穏やかな表情を浮かべていた。
それは、もう何年も目にしていない、あの時と同じ顔だった。
兄の指が頬に触れる瞬間、視界がぐらりと揺れて、世界がまた闇に戻る。兄貴。何処だよ、兄貴。張り上げた声は、再び闇の中に吸い込まれた。
この闇の中に居るのは、オレだけなのだ。また、独りになってしまったのだ。
全身の力が抜け落ち、その場に落ちる。先程まで感じていた温もりに縋るように、自らの肩を抱き締めた。
伝う涙を拭ってくれる人はもう、居ない。けれど、拭う為にこの手を離したら、その温もりさえも、消えてしまう。
消したくなかった。あの温もりを、もっと感じていたかった。離したくなかった。離せなかった。
もう一度、兄の名を呟いてみる。けれどもやはり返事はない。肩に乗せた掌に、痛いくらいに力を込めたその時。
何かが、触れた。俺の手に重なるように、小さな、何かが。
それが子供の掌だと分かると、顔を上げずにはいられなかった。
オレはこの小さな温もりを知っている。忘れた事なんか、一度もなかった。
暗闇でも、はっきりと分かる。目の前に居るのは、きっと―――

大丈夫だよ。ほら、泣かないで――――



頬に感じる冷たさにそっと目を覚ますと、また一つ冷たい雫が横を流れ、枕を濡らしていた。
隣のベッドでは、珍しくエイトがまだ寝ている。
その姿にほっと息を零し、体を起こして膝を立てた毛布の上に顔をうずめる。
左隣では、ヤンガスの鼾が煩く響いていた。
皆がまだ寝ていて良かった。ククールは心の中で静かに呟く。
夢を見て、涙を流していたなどと、知られたくなかったからだ。
「くそっ……」
いつもなら二日酔いで悲鳴を上げる頭が、今日は別の意味で痛みを感じる。
先程まで見ていた夢は、ずっと前に捨てた、永遠に叶う事の無い、儚い願い。
遠い過去の、だが今も自分の中の奥深くで燻っている、あの記憶。
ククールはもう一度小さく汚い言葉を吐き出した。
原因は、分かっている。
此処に泊まる前に立ち寄った、あの場所で。久しぶりにあの男に逢ったからだ。
野宿が続く長旅で、忘れかけていたその存在。もう関係ないと、自ら断ちきったその存在。
けれども自分は、やはりどうしても消し去る事が出来ずにいた。誰よりも強く、自分の中に在る兄の姿を。
忘れる事など、出来やしないのだ。どう足掻いても。
だから昨夜は、いつもより酒の量を増やした。ずっとしてきた事だ。酒に溺れてしまえば良いのだと。
だが結局それも所詮無意味だったようだ。だからこうして、まどろみの中に現れたのだろう。
在り得もしない、けれど心に深く根付く想いが、形となって。
「ふざけんなよ……」

呟いた言葉は、誰に向けたものなのか。ククール自身にも、分からなかった。

 

9.Je ne l'ai jamais vu. 一度も見たことがない
橙の庭さまよりお借り致しました。

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