彼の腕には時計がない。あるのは特徴的な腕輪だけだ。
事務所にいる時ならば壁掛けや机上の情報機器で確認が取れる。だが、出先では?
この時代通信機器で確認が出来るとはいえ、社会人としては些か問題があると思っていた。
尤も私は、まだその所作をする彼を目にしたことはなかったのだが。
「オドロキくん」
「はい」
「今、何時だか分かるかな」
裁判所の地下で遅めの昼食を終えた後、私は彼に意地の悪い質問をした。
ひとたび外へと出ればそこに時計は見当たらない。この辺りであるとすれば、少し先の駅前ぐらいだろう。
「時間、ですか?」
すぐに確認します。そう言うと彼は胸元を探り始めた。その仕草に、私は違和感を覚える。
彼はそこに、携帯電話を入れていただろうか。
「十五時半を過ぎたところですね」
彼が取り出したのは、予想もしていなかった物だった。
「懐中時計?」
「はい」
アンティークと呼ぶに相応しい、年季の入ったその代物は独特の光沢を持ち、見る者を惹き付けずにはいられない存在感を放っている。
「随分と、古風な物を持っていますね」
私の言葉に彼は照れ臭そうに笑った。
「御両親のですか」
「ええ、多分」
「多分、とは?」
「オレ、この腕輪と、この時計だけを持っていたみたいなんです」
「うん?」
「施設の人が教えてくれたんです。確か、小学生に上がった頃かな」
またしても彼は私の予想を裏切った。
「……そう」
実の両親からだとは思わなかった。一度も会ったことはないが、彼の育ての親はどちらも高齢だった。
それならばこのような代物を、彼が受け継いでいても可笑しくはないだろうと。
「オドロキくん」
「はい」
私はもう一つ、彼に質問を投げ掛けた。
「もし実の両親が生きているとして、どこかで出会えたとするならば、キミはどうしますか?」
訊き終えてから、頭の片隅で酷な質問だと思った。
「殴りますね」
「殴る?」
「はい」
間髪を容れずに答えたかと思えば、顔色さえ変えずはっきりと首を縦に振った彼に、今度は私が口元を歪ませる番だった。
「それはまた、随分と物騒ですね」
けれどもそれは致し方ないのかもしれない。
どんな事情があるにせよ、自分を棄て、音沙汰もなく生きていたなどとは。
「その後、なんでオレを棄てたのかって、今までどうしてたのかって、訊きます」
「……そう」
「……でも」
「うん……?」

「きっとオレ、泣くんだと思います。
会えてよかった。生きていてくれて、よかったって」

気のせいか声が震えているような気がした。けれども彼の瞳は強く前を見据えている。
それはあの時と同じだった。
生みの親の顔を知らなければ、生死も分からないと言った、面接時の彼と。
「……そう」
「先生……」
「うん?」
「オレ、殴るなんて言ったけど……本当はとても感謝してるんです」
「……感謝?」
何故そこでその感情が生まれるのか、私には理解出来なかった。
そんな私を尻目に、彼は言葉を続ける。
「もしオレが本当の両親の元ですくすくと育っていたら、当たり前だけど今の人生はないことになります。
もしかしたらそれは――その人生も幸せなのかもしれないけど、そうじゃないかもしれない。無限に想像が出来ます。
でも、どんなに想像を膨らませても、それは意味のないことなんです」
「意味の、ない……?」
「だって、どんなに想いを馳せても、その人生を歩むことは出来ないじゃないですか。
それに、そう思うのは、今の人生に納得をしていないからなんじゃないかって」
言葉を失う私に、彼は更に続ける。
「なによりそれは、この人生で出会った人との縁を、ないことにするんじゃないかなって。
それだけは、絶対に嫌なんです」
「……そう」
私はその二文字を吐き出すのが精一杯だった。
「オレ、好きです、この人生。この人生で出会えた人たち皆が、オレ、好きなんです」
だからキミの口から感謝という言葉が出るのか。皮肉にも今の人生を送るきっかけとなった、生みの親へと。
「なんて、まだ二十二のワカゾウがなにを語っているんだかって話ですけど」
再び照れ臭そうに笑う、駆け出しの弁護士。
「……いいえ」
彼の言う通り、確かに別の人生があったことだろう。
それは幸か不幸かは分からない。けれども彼は、そんな“もし”を無意味だと語った。
その眼光とその言葉は、私の頭から離れなかった。

「キミの考えには、いつも驚かされてばかりです」

昨日の時計はない。そんな言葉があったのを思い出す。
それは彼だけでなく、万人に当て嵌まることだろう。
そして当然、この私にも。

「そう、ですか?」
「ええ」


キミが生みの親に感謝をするのならば、私は意地の悪い質問を投げ掛けた五分前の自分と、意地の悪い質問に答えてくれたキミに感謝をしよう。



オドロキくんが懐中時計を持っていたらというはなし(からかなり逸れました)
牙琉先生やなるほどんは袖口に隠れていそうですが、オドロキくんは腕輪だけですから時間の確認は携帯電話なのかな。
牙琉先生厳しそうだからきっと咎めそうだなとか、そんな妄想から膨らみました。

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