「これ、憶えてる?」
傍らに置いたバスケットからエアリスが取り出したものは、一冊の本だった。
「なんだ、それは…?」
「憶えてない?昔、ツォンがくれたのよ」

ツォンはそれが何かを考える。
エアリスがまだ幼い頃、ツォンは彼女に何冊かの絵本をプレゼントした事があった。
それらはどれも表紙に絵が描かれていた筈だ。けれども今彼女が手にしている本は、何も描かれていない。
セピア色の表紙はくたびれていて、本のタイトルであろう文字も剥がれ落ちてしまっている。
微かに残った金文字も輝きを失っていた。

「絵本でない事は、確かだと思うが…」
「ヒント、欲しい?」
「正解は教えて貰えないのか」
「だって、つまらないじゃない。簡単に、教えちゃったら」
「意地悪だな、君は」
「憶えてると思ったのに。忘れてるツォンが、いけないのよ」

お姫様のご機嫌は拗ねてしまったようだ。仕方がないなとツォンは正解を当てる事にした。

「一つ目のヒントはね、わたしの家」
「エアリスの家?」
「うん」
「…二つ目は?」
「わたしの部屋」
「…すまないが、それは本当にヒントなのか?」
「うん」
「一つ目も二つ目も、たいして変わりがないじゃないか」
ツォンの溜息にエアリスが口を尖らせる。
「だって、本当のことだもん。じゃぁ、最後のヒントよ。クレヨン。もう、分かると思うんだけどなぁ」
ツォンはエアリスの手にある本をもう一度見やる。
絵のない表紙。彼女の家。部屋。そして最後のクレヨン。
それらを繋ぎ合わせて、ようやく分かった答えは。
「スケッチブックか」
「当たり」
ふふ、と嬉しそうに笑うエアリスの手が、表紙を捲る。
「ほら見て、これ」
現れたのは、黒で埋め尽くされたページだった。
「…これは、私か?」
やけに手足が長い。そして頭も大きい。
「うん」
次に現れたのも、黒だった。
「私ばかりだな」
ページを捲るエアリスの手が少し早まる。暫く続いた黒が、カラフルな色に変わった。

「これは…君と、君の母親か」
手を繋いで笑う二人の周りには、彼女が好きな花も描かれている。
手足が長いのはツォンだけではなかった。彼女の母親も頭が異常に大きい。
この頃のエアリスにとって、大人はそういう存在だったのだろう。
絵の下には子供の拙い字で『おかあさんとわたし』というタイトルまで付けられていた。
後に続くページは、親子の絵で埋め尽くされていた。
そこでふと思う。

「どうして私の絵が最初なんだ?」
普通ならば、一番身近なものを描くだろう。君と、君の母親を。

「どうして、だろうね」
ページは次で最後だった。それを見る前に、エアリスが声を掛ける。
「ね、これくれた時のこと…憶えてる?」
ツォンは記憶を遡る。
あの頃の私とエアリスの間には、今のような穏やかさはなかった。
逢いに行く度にしかめっ面をされ、会話と言う会話も満足に出来なかった。
困り果てた私は、姑息な手段だが物で釣る事にしたのだ。
忘れてはいたが、彼女が今手にしているスケッチブックとクレヨンで。
「君が喜ぶかと思って、持って行ったんだ。だが、“こんなのいらない”と突き返されたな」
「だって、神羅からのプレゼントなんて、嬉しくないもの」
エアリスのか細い手が、スケッチブックを静かに閉じる。

「でも、あなたは何度も、これを持って、家に来た」

ツォンは古びた教会の椅子に背を預ける。軋んだ音が響いた。
「いらない、って言うたび、あなたはしょんぼりした顔、して。わたし、その顔を見るのが、楽しかったわ」
エアリスがくすくすと笑う。けれどもそれはすぐに止んだ。
「だけど、わたしは、結局それを、貰うことに、したの。だって、しつこいんだもん、ツォン」
「捨てる事も出来ただろう。なのに何故、そうしなかったんだ?」
嫌いな人間から、貰った物など。
「どうして、かな」
エアリスは折れた表紙の隅を撫でるが、長年付いた癖は元には戻らなかった。 

「捨てちゃいけない、気がしたの」

それきりエアリスは黙ってしまった。けれどもツォンは、続きを訊かなくとも、彼女が何故それを捨てれなかったのか。
大体の予想はついた。
意地が悪いだけではない。彼女は、素直ではないのだ。
「嬉しかったんだろう、本当は。だから、捨てられなかった。違うか?」

包装紙を開けて出て来た、真新しいスケッチブック。十六色の、クレヨン。

エアリスは何も答えなかった。ただ手の中にあるスケッチブックを見つめていた。
「だから、最初なのか」
「なに、納得してるのよ」
ツォンは今日、初めて笑った気がした。
「素直じゃないな、君は」
スケッチブックで軽く叩かれる。二回目の攻撃は、それを掴む事で阻止した。
「これは私が初めてあげた、君へのプレゼントだ」
私が自分で選び、彼女に贈ったのだ。もうすっかりとくたびれてしまった、このスケッチブックを。

エアリスの手をスケッチブックから離し、ツォンは表紙を捲る。
描かれた自分をもう一度じっくりと見た。
「絵本の事しか、憶えていなかったよ」
あの時私は、彼女がこれを受け取ってくれた事が、とても嬉しかったというのに。

「どうして、忘れていたんだろうな」

黒で埋まる五ページはどれもが無表情だった。けれど良く見れば、描かれた目付きが徐々に和らいでいる。
カラフルな色が続いた後、そう言えば最後のページがまだだったなとツォンはスケッチブックを閉じ、裏表紙を捲った。
それまで黙っていたエアリスの口が動く。
「これを、わたしが、受け取った時」
現れた最後のページは、黒だった。けれども、あの五ページとは違う。
「ツォン、笑ったの」
ツォンの隣には、緑のワンピースに身を包んだ少女が描かれていた。
それは幼い、あの頃のエアリスだった。
無邪気に笑うエアリス。ツォンの顔も、笑顔で描かれている。
「こんな風に、すごく、嬉しそうに」
エアリスの指が、スケッチブックのツォンを指す。
「わたし、今でも、憶えてる。――焼き付いて、離れなかった」

ああ。彼女は本当に素直じゃない。だがそれが、彼女らしいなとも思った。

「君も、嬉しかったんだろう?」

エアリスは再び口を閉ざす。ツォンは気にしなかった。
訊かずとも、彼女の指の隣が、全てを語っていた。

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