頼まれていた仕事が終わり、所長室のドアをノックするが、中からの返事はなく。
もう一度強めにノックをしても、声を掛けても、相変わらずなんの反応もない。
(聞こえてない、ってわけはないよなぁ…)
オレは小首を傾げながらも数秒待った後、静かにドアノブを回した。
「失礼します…」
中へ踏み入れば、先生は部屋の奥に置かれた自身のデスクで、腕を組んで座っていた。
その顔は少し、俯いている。
「……?あの…牙琉先生、書類の作成、終わりましたけど……」
音を立てる事なくドアを閉め、遮るものなどない空間でも、オレの声に先生の口が開く事はなく、身動きすらもなかった。
(……もしかして、寝てる…?)
浮かぶ疑問に恐る恐る先生の元へと近付く。
その顔をそっと覗き込めば、項垂れる前髪で気付かなかったが、あの青みがかった瞳は閉じられていた。
道理で返事がないわけだと納得する。入室した際は、てっきり機嫌でも悪いのかと思っていたが。
(珍しい事もあるもんだな…)
初めて見るその穏やかな寝顔に、自然と口元が緩む。
(まぁ、ここの所、忙しかったもんな…。無理もないか…)
ちらりとデスクの上に目を向ければ、パソコンのモニターは消え落ち、一時間ほど前に淹れた紅茶は、まだ半分近く残っていた。
(こういうのは、早く片付けたほうがいいんだろうけど…)
片付けてしまったら、オレがここに来た事がばれてしまうなと思い、そのままにしておく事にした。
(あ…眼鏡、落ちそうだな……)
流石にカップは怪しむだろうが、眼鏡ぐらいは大丈夫だろうと、持ったままの書類をデスクの邪魔にならない場所に置き、そっとフレームを掴む。
「ん……」
(や、やばい!起こしちゃったか!?)
急いで手を引き、様子を窺う。焦ったものの、先生はほんの少し、首を右へと向けるだけだった。
(はぁ…良かった……)
胸を撫で下ろし、ゆっくりと外していく。するりと抜けた眼鏡は、音を立てぬよう静かにデスクへと置いた。
(それにしても…)
もう一度先生の顔に視線を戻す。
(ほんと綺麗だよな……牙琉先生…)
思いのほか長い睫毛と、すっと通った鼻梁。ビロードのように滑らかな肌。そして、引き結ばれた、薄めの唇。
人の寝顔をじろじろと見てしまうのは、良くないと分かっていても。好奇心には打ち勝てない。
機嫌が悪いのなら、書類だけ置いて、すぐに出ようと思っていたのに。
ほんの少しだけ、触れてみたいと思ったのだ。厳しさと、優しさを紡ぐ、その唇に。
(…な、なに考えてるんだよ…オレは…!)
そんな事をしたら、今度こそ起きてしまうかもしれない。それでも、湧き上がる想いは抑えられなかった。
(でも……流石にまずいよなぁ……)
暫く考え込んだ後、オレが出した答えは。
(頬なら…いいかな……)
戸惑いながらも、黄昏に染まる、その柔らかな頬に。
指だけそっと、触れた。

 

Back   Next

inserted by FC2 system