部屋を包む、穏やかな温もり。窓の向こうで響く、小鳥の囀り。
薄く開けた窓からふわりと舞う風が、頬を撫でるその心地良さに。自然と瞼が重くなる。
(春って、どうしてこんなに眠くなるのかな…)
欠伸を噛み殺して、手元の書類をホチキスで留めた瞬間激痛が走る。
「いっ……!!!」
持っていた書類とホチキスを投げるように落とす。痛む左の親指を見れば、書類に刺さる筈の針が、自身の指先へ深々と刺さっていた。
(なにやってんだよ、オレ…っ!!)
ずきずきと痛むその個所から、じわじわと溢れ出す血液。急いで針を抜こうとしても、自分で抜くのは些か抵抗がある。しかし、だからといってこのままというわけにもいかない。
そしてこういう時に限って、ティッシュを切らしている。
眠気など、一気に飛んでしまった。
「オドロキくん?どうかしましたか?」
先生の声に、痛む親指を咄嗟にデスクの下へと隠す。勿論、血が流れないように、右手で覆って。
「い、いえ!なんでもないですっ!!」
ぼうっとしていてホチキスの針を刺した、などとは口が裂けても言えない。なんとしても、誤魔化さなければ。
「あの、先生…オレ、ちょっと席を外してもいいですか…?あっ、先生はそのまま!そのまま作業しててください!!」
訝しげな表情で先生が立ち上がったのを見て、オレは必死に“来ないでくれ”とアピールをする。
幸い腰掛けている椅子は回転式なので、このままくるりと反転させれば、気付かれずに立ち上がる事が出来る。
痛みを抑え、ようやくドアへと手を伸ばした、その時―――――
「待ちなさい、オドロキくん」
普段より低めのその声に、思わずびくりとしてしまう。
「…怪我をしたのかい?」
「い、いや、違いますよ…!ほんと、なんでもないですから…!」
オレは首だけを向けて返事をする。すると、いつの間にか先生も移動していたようで。
「ならキミは、赤いインクでも零したのかな?それを落とす為に、席を?」
俺のデスクの横に立ち。先生はその上に散らばる書類を指で示す。向けられる穏やかな笑みが、非常に怖い。
「私にはこれが、インクと言うよりも、血の色に見えるのですが」
目を凝らさなくても、書類の上にはっきりと見えるその“赤”に「あ」、と口が開く。
(や、やっちまった……)
書類は印刷をし直せばいいのだが、下手に誤魔化した事がばれてしまった。
先生は小さく息を吐くと、俺の方へ近付き席に戻るよう促した。
「キミは大人しくしていなさい。今、救急箱を持ってくるから」
「大丈夫です、オレ、自分で…」
「いいから、席に戻りなさい」
先生はスーツの胸元からハンカチを取り出すと、オレの手を解き、血にまみれた親指にそっと当てた。
「え、ちょ…、せ、先生…!」
白のハンカチが、瞬く間に赤で染まる。
「これで押さえておきなさい。いいですね?」
「は、はい…。す、すみません…」
有無を言わさぬ強い口調に、オレは素直に応じるしかなかった。

「まったく…。怪我をしたのなら正直に言えばいいでしょう?」
呆れた様子の先生に、オレはいつもの調子で返事をする事など出来なかった。
「…すみません……」
オレは指先に当てていたハンカチを掌の下へと移動する。
「それにしても、見事に刺さっていますね。一体どうすれば自分の指に刺さるのか…」
「あ、その…ええっと……」
「どうせキミの事です。暖かくなってきたから、ぼうっとしていたんでしょう?」
「うっ…。す、すみません……」
先生は瓶詰めの脱脂綿をピンセットで摘み、消毒液を浸みこませると、オレの左手を取る。
「少し沁みるかもしれませんが、じっとしていてくださいね」
脱脂綿がぽんぽんと当たる度に、指先に鋭い痛みが走る。オレは唇を噛みしめて、必死にその痛みに耐えた。
消毒が終わると、いよいよ“針を抜く”瞬間がやってくる。
「では、抜きますよ」
「お、お願いします……」
ピンセットの先が針と指の隙間に入れられるその激痛に、体がびくりとしてしまう。
「オドロキくん。もう少し、我慢していてくださいね」
オレは頷く事で返事をする。根元まで深く刺さっている為か、中々簡単にはいかないようだ。
「ううっ…!」
「もう少しで終わるからね…。はい、抜けましたよ」
先生の声に、オレは安堵の息を吐く。傷口を押さえていた針がなくなった事で、血が見る見る間に溢れ出す。
「気持ち悪くないかい?大丈夫?」
「だ、大丈夫…です…」
「そう。では、もう一度消毒をするよ」
抜けた針と用済みのピンセットをデスクの上に置き、先生は直接傷口へと消毒液を垂らした。
(痛くない…痛くない…!王泥喜法介は大丈夫です…っ!)
心の中でそう念じていても、やはり痛いものは痛い。
先生は傷口の周りに垂れた余分な消毒液と血をガーゼで拭き取ると、もう一枚のガーゼを傷口に当てた。
その上をテープで止めると、今度は包帯を取り出し、緩やかに巻いていく。
絆創膏を使用しない所は、如何にも先生らしいなと思う。「きつくはない?」
「あっ、大丈夫です…!」
「そう」
先生は鋏を取り出すと、巻き終わった包帯を切り、包帯止めで留めた。
「はい。終わりましたよ」
「あ、ありがとうございます、先生…」
「いいえ。次からは気を付けてくださいね」
道具を片付け始める先生に、手伝おうと手を伸ばせば、「君はもう暫く休んでいなさい」と断られた。
「でも…」
「今度は貧血で、なんて倒れられでもしたら、その方が迷惑です」
ぐさりと刺さる言葉に、オレは「すみません」としか言いようがなかった。
「ふふ…。でも、やはり心配だからね。…ああ、そうだ」
片付けが終わり、思い出したように声を上げた先生の顔を見る。
「忘れていました。こちらの手も、汚れていたね」
先生はオレの右手に視線を送る。自分でもすっかり忘れていたが、掌には俺の血がべったりと付着している。
「あっ、オレ、洗ってきます…!」
「休んでいなさいと言ったでしょう?なにか拭くものを持ってくるから、キミはそのままでいなさい」
そう言うと先生は救急箱を片手に、静かに部屋を出た。
「…なんか、情けないな、オレ……」
怪我をした事も勿論だが、迷惑を掛けまいと、なんとか誤魔化そうとしたのに。
結局見つかってしまい、挙句の果てに、何から何までお世話になってしまった。
「はぁ……」
溜息を吐くと、オレは今し方手当てされた指を見る。
「でも、なんだろう…なんか…」
怪我をして、誰かに手当てをされるというのは、もう何年も前の事で。
久しぶりに感じた優しい温もりが、嬉しかった。

「先生の手、って…意外とごつごつしてたな…」

指先から広がる熱は、痛みのせいか。それとも――

昔は女性の事務員さんを出していたのですが先生と二人だけにしてしまいました。
先生はハンカチを洗って返されても捨てる/新しいのを贈ると言っても断固断ると思います。持て余す程所持しているでしょうし。
オドロキくんも持っているでしょうが気が動転していて忘れていたという事でお願いします。
余談ですがこれは私が子供の頃やらかした話。

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